西周 直筆 獨逸学協会学校 昇級證 初代校長 大政奉還 幕臣 男爵 王政復古 維新 明六社 徳川慶喜


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佐藤恆丸(さとうつねまる)
★★佐藤恆丸(さとうつねまる)★★

生没年(1872 ~ 1954)

帝国大学医科大学卒業(明治29年)

陸軍軍医総監・(中将軍医のトップ としての最高の階級

京城衛戍病院長

日本赤十字病院長

侍医頭宮内庁侍従職に属し天皇や皇族の診療に当たる医師のトップ

宮中顧問官

従三位 勲一等 功四級 コマンドールオドロゼニアポルスキー



西 周
★★西 周 (にし あまね、文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日) は江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。西 周助ともいう。勲一等瑞宝章(1897年)

生涯

石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。幼名、経太郎。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森外の生家がある。西の生家では、彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。

漢学の素養を身につける他、天保12年(1841年)に藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。オランダ留学中の1864年にライデンでフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会している。[要出典]

慶応元年(1865年)に帰国した後、目付に就任、
徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立につとめた。

明治6年(1873年)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。

東京学士会院(現在の日本学士院)第2代及び第4代会長[2]、
獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長を務めた。

明治17年(1884年)頃から右半身が麻痺しはじめ、明治20年(1887年)、健康上の理由により文部省・陸軍省・学士会院会員の公職を辞職した。明治23年(1890年)9月29日には貴族院勅選議員に任じられ[3]、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。明治24年(1891年)、体の衰弱が著しくなり貴族院議員を辞職した。明治25年(1892年)、大磯の別邸に移った。歩行は不自由で外出は不可能であったが、学問の研究は続けられ、西洋の心理学と、東洋の儒教・仏教の思想を統一した新しい心理学の体系を書き続けた。その著『生性発蘊』は、遂に未完に終わった。明治30年(1897年)、明治天皇は西の功績に対し勲一等瑞宝章、男爵の位を授けた。同年1月31日に死去。享年68。墓所は東京都港区の青山霊園。

獨逸学協会学校

明治14年(1881年)、獨逸学協会の創立に参画し、2年後の開校にあたり初代校長に就任した。西は獨逸学協会学校開校式の演説において「そもそも、学をなす道はまず志を立つるにあり」「志を立てて学問に従事すれば、これに次ぐものは勉強にあり」と述べている。