ロベルト・コッホ 名刺ロベルト・コッホ 名刺参考画像参考画像

当時物 ロベルト・コッホ 北里柴三郎 細菌学 炭疽菌、結核菌、コレラ菌 ペスト菌 医学 厳島神社 古写真 戦前 明治 ノーベル賞


商品詳細
貴重な写真です。

明治41年8月14日・ 厳島神社大元公園入口場

撮影師・・広島市細工町 松井写真館

★サイズ・・
縦425㎜ 横305㎜

裏にロベルト・コッホの名刺が貼ってあり、写真の説明が書いてあります。

下部に4㎝破れあり。100年以上前の写真で傷み御座いますが神経質な方、完璧を求める方は入札をお控えください。

★ロベルト・コッホ博士は結核菌の発見者として知られており、1905年には、結核に関する研究でノーベル賞を受賞した細菌学の権威です。 コッホ博士は、日本では北里博士らとここ鎌倉で過ごし、鎌倉から見る富士山の夕景が特に好きであったということです。コッホ博士は、日本から帰国して数年後に亡くなられ、その死を悼んで、こ
碑が建てられました。記念碑解説に、この写真と同じものが描かれてます。


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北里 柴三郎
1853年(嘉永5年) - 肥後国北里村で代々総庄屋を務めた北里氏の支流の家に生まれる。
1866年(慶応2年) - 熊本に出て、田中司馬(儒者、医学)の塾に入門する。
1869年(明治2年) - 12月、熊本藩の藩校時習館に入寮。学問・武芸に励む。
1871年(明治4年) - 2月、熊本の古城医学所病院に入学。蘭医のコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに師事。
1875年(明治8年) - 4月、22歳で東京医学校(1877年、東京大学医学部と改称)に入学する[注 4] 。
1883年(明治16年)
4月、松尾臣善(第6代日銀総裁)の長女・乕と結婚。
7月、東京大学医学部卒業[17](予科3年、本科5年の課程を7年半で修了)。
11月、内務省衛生局に奉職。
1885年(明治18年) - 11月、ドイツ留学を命じられる。
1886年(明治19年) - 1月、ドイツベルリン大学のコッホ研究室に入り研究を開始する。
1889年(明治22年) - ベーリングとともに世界で最初に破傷風菌の純粋培養に成功する。
1890年(明治23年) - 世界で初めて血清療法を発見し、ジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清を開発する。12月、肺結核治療研究のため皇室から金一千円を下賜され、留学期間を1年延長(内務省は休職)。
1891年(明治24年) - 8月、医学博士の学位を受ける[18]。
1892年(明治25年) - 10月、日本に戻り福澤諭吉らの援助により芝公園内に設立された「伝染病研究所」の所長に就任する[注 5]。11月、伝染病研究所は大日本私立衛生会の所属になり、年間3600万円の財政支援を受ける。

北里の墓(青山霊園)
1894年(明治27年) - 2月、伝染病研究所が芝区愛宕町に移転、ジフテリア抗血清の製造、これによる治療を開始する。5月には日本政府により香港へ調査派遣され、6月、感染症である腺ペストの病原菌を共同発見した[14]。ほぼ同時に、アレクサンダー・イェルサン(英語版)もペスト菌を発見した[14]。最初、ペスト菌はpasteurella pestis(パスツレラ ペスティス)と呼ばれていたが、今ではYersinia pestis(エルシニア ペスティス)と呼ばれている。
1899年(明治32年) - 3月、伝染病研究所が国立(内務省)に移管される。4月、北里はそこの所長に就任する。
1901年(明治34年) - 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる[19]。
1906年(明治39年) - 4月、日本連合医学会会頭。9月、帝国学士院会員に任命される。11月、新しい伝染病研究所の建物が東京の白金台に完成し、そこに移転する。
1908年(明治41年) - 6月、恩師コッホ夫妻を迎える。
1913年(大正2年) - 日本結核予防協会を設立、副会頭に就任する。
1914年(大正3年) - 伝染病研究所が突然、内務省から文部省に移管[20]され東京帝国大学に合併されることになる。この時、北里は、この移管に大反対して所長を辞任する。また、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員も一斉に辞表を提出した。これは「伝研騒動」といわれる。11月5日に私費を投じて「北里研究所」を設立、初代所長に就任する。
1915年(大正4年) - 恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)設立とともに初代院長となる。
1916年(大正5年) - 11月、府県の医師会を統合して「大日本医師会」を設立、会長に就任する。
1917年(大正6年) - 慶應義塾大学部医学科の創立に尽力し、医学科学長となる[15](医学科は1920年(大正9年)に医学部となる)。
1920年(大正9年) - 慶應義塾大学医学部学部長[15]、慶應医学会会長[21]および大学医学部病院の院長となる[15]。
1923年(大正12年) - 日本医師会を創設。初代会長に就任する。
1924年(大正13年) - 2月、男爵叙爵。
1928年(昭和3年) - 5月、医学部長を辞任、顧問就任[15]。
1931年(昭和6年) - 6月13日5時、脳溢血のため東京・麻布の自宅で死去。享年78。6月17日、青山斎場で葬儀。青山墓地に葬られる。


ロベルト・コッホ
1843年、ヘルマン・コッホとヘンリエッテ・ビーヴェントの間にニーダーザクセン州の東南にあるクラウスタール(ドイツ語版)(ハルツ近郊、現在ツェラーフェルトと合併しクラウスタール(ドイツ語版))で生まれ、ゲッティンゲン大学を卒業。
1876年、炭疽菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることを証明した。このことによって細菌が動物の病原体であることを証明し、その証明指針であるコッホの原則を提唱した。
1882年3月24日、結核菌を発見した。ヒトにおいて炭疽菌と同様に病原性の証明を行って、論文『結核の病因論』を著し、ヒトにおいても細菌が病原体であることを証明した(後にこれを記念して、3月24日は世界結核デーと制定された)。
1883年、インドにおいて、コレラ菌を発見。
1890年、結核菌の培養上清からツベルクリン(結核菌ワクチン)を創製。当初は治療用に使用することが目的だったが、効果がなかったため、現在では診断用のみに用いられている。
1893年、妻エミーと離婚、30歳年下のヘドヴィグ・フライブルクと結婚。
1897年、王立協会外国人会員。
1905年、結核に関する研究の業績よりノーベル生理学・医学賞を受賞。
ベルリン大学で教鞭を執り、彼の弟子として、

ゲオルク・ガフキー - 腸チフス菌を発見した。
フリードリヒ・レフラー - ジフテリア菌の分離に成功し、口蹄疫ウイルスを発見した。
エミール・ベーリング - 血清療法の研究により1901年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
パウル・エールリヒ - 化学療法の研究により1908年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
北里柴三郎 - 破傷風菌を純粋培養し、血清療法を発見・確立し、ペスト菌を発見した。
などを輩出した。

1908年、北里に招かれ来日。
1910年、ドイツ南西部のバーデン=バーデンで逝去。66歳没。

(2023年4月3日の改定後の料金です)
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